Mag-log in「綾香ちゃんが悪いって言ってるんじゃない」「俺が勝手に嫌だっただけ」しばらく黙ってから、続ける。「綾香ちゃんを、渡したくないんだよ」指が膝の上でゆっくり握られた。「誰にも」静かな声だった。開き直っているわけではない。むしろ、自分でも綺麗な感情ではないと分かっていて、それでも隠す余裕がないように見えた。「相談しなかったのは悪かったと思ってる」「綾香ちゃんが怒ることも分かってた」「でも」隼人くんの目が、まっすぐ私を見る。「後悔はしてない」胸の奥が揺れた。「兄貴との縁談を、綾香ちゃんが断るまで待つつもりはなかった」「断るって分かってても?」「分かってても」即答だった。「可能性として残ってること自体が嫌だった」声は静かだった。けれど迷いはない。「だから、潰した」「完全に?」「うん」「また同じことがあったら?」ほんの少しも考えずに。「同じことすると思う」私は隼人くんを見る。この人が私を大切にしていることは、分かっている。だからこそ。今まで距離を置いてきた家の仕事まで。自分の生活が変わるほどのものまで。平然と引き受けたことが、怖かった。「隼人くん」声が少し掠れた。「そんなに大きなことを」言葉にしようとして、胸が詰まる。「私なんかのことで――」「私なんかって言うの、やめて」低い声が、私の言葉を切った。はっとして顔を上げる。隼人くんの表情が、初めて崩れていた。眉間に深く皺が寄っている。さっきまで抑えていた目に、明らかな苛立ちが浮かんでいた。片手がテーブルの上へ出る。指先が、一度強く握られる。「それ、嫌だ」「……隼人くん」「綾香ちゃんが、自分のことをそういう言い方するの」声が低い。今までの平坦さが消えていた。「俺が勝手にやったことだから、怒るのはいいよ」「無茶だって言われるのも分かる」少し前へ身体を寄せる。「でも、私なんかのためにって言われるのは違う」視線が、真っ直ぐぶつかる。「綾香ちゃんだからだよ」隼人くんの喉が動いた。「他の誰かなら、こんなことしない」「家が何を決めても、好きにすればいいって思う」「でも綾香ちゃんは違う」声が少しだけ掠れた。「俺、綾香ちゃんのこと諦めるつもりないから」息をするのを忘れた。「事業が大きいことも分かってる」「海外だけじゃ
料亭を出ると、夜の空気が頬に冷たかった。石畳の脇に置かれた灯りが、植木の影を長く伸ばしている。隼人くんは私の鞄を持ったまま、少し前を歩いていた。普段なら、自然に歩幅を合わせる。並んでしまえば、何も言わなくても距離は近い。けれど今夜は、半歩ほど離れていた。遠すぎるわけではない。それでも、手を伸ばせば触れられる距離でもない。私も、その隙間を埋めなかった。怒っていた。父親たちが私の結婚を、事業の条件のように扱ったことにも。それを止めるためとはいえ、隼人くんが自分の人生まで変えるような決断を、私に何も言わず進めていたことにも。店を出た時から胸の奥にあったものが、冷たい空気に触れて、少しずつざらついた輪郭を持ちはじめていた。大通りへ出ると、隼人くんが足を止めた。「近くのホテルに行こう」振り返った顔は、いつもより表情が薄い。父親たちの前で見せていた冷たい顔とは違う。けれど、私の前で見せる隼人くんとも違った。口元が少し固い。「ホテルなら、ラウンジで話せるから」帰るかどうかは聞かなかった。「……うん」それだけ答えると、隼人くんは短く頷いた。「行こう」そのまま歩き出す。さっきまでは。私がどうしたいか。嫌なら嫌でいい。選ばなくてもいい。そうやって、ずっと選択肢を渡してくれていたのに。今は違う。話すことを決めたのは、隼人くんだった。そのことにも、少しだけ胸がざらついた。***ホテルまでの道で、ほとんど会話はなかった。車の走る音。信号の電子音。すれ違う人の声。隼人くんは黙っている。けれど、歩道の段差では速度を落とした。人とすれ違う時には、私が車道側へ寄らないよう自然に位置を変える。横断歩道では、一度だけ私の足元を確認する。いつも通りだった。だから余計に、分からなかった。怒っているのか。傷ついているのか。それとも、別のことを考えているのか。何度か、隼人くんの視線を感じた。こちらを見る。けれど目が合う前に、前へ戻る。唇がわずかに開いて。そのまま閉じる。言いたいことがあるのに、飲み込んでいる。私は、それが嫌だった。優しくされることではない。何を考えているのか分からないことだけが、妙に引っかかった。私も話しかけなかった。隼人くんに何かあるのは分かる。でも今は、私だって怒っている。
先ほどの縁談を。感情的な拒絶として受け取っていない。私が望んだ通り。仕事と婚姻を、きちんと分けてくれている。「白松先生」郁人先生が言う。「今日のことは」「今後の業務へ持ち込む必要はありません」「はい」「ただ」一度、隼人くんへ視線を向ける。「隼人とは、話した方がいいでしょう」その言い方に。わずかな含みがあった。心配というより。今の弟の状態を、正確に見ている人の言葉だった。「そうします」私が答えると、郁人先生はそれ以上何も言わなかった。「では」「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」郁人先生は、隼人くんの横を通る。二人の間に。短い視線が交わった。「兄貴」隼人くんが呼ぶ。「何ですか」「後で連絡する」「分かった」兄弟の会話は、それだけだった。郁人先生が部屋を出ていく。襖が閉じると。急に、隼人くんと二人だけになった。***隼人くんは。すぐには話しかけてこなかった。上着のポケットへ片手を入れたまま、少し離れた場所に立っている。機嫌が悪い。そう見えた。けれど。表情から何を考えているのかは読めない。父親たちの前で見せていた冷たさは消えている。それでも。いつもの隼人くんにも戻っていなかった。「隼人くん」私から名前を呼ぶ。ようやく、視線がこちらへ向いた。今日初めて。正面から目が合う。その目には。怒っているような。傷ついているような。それでも、どちらも隠そうとしているような色があった。「終わった?」低い声だった。「うん」「郁人兄貴とは」一度、言葉が止まる。「ちゃんと話したんだ」「挨拶しただけだよ」「そう」短い返事。やはり、少し機嫌が悪い。「隼人くん」「何?」「私に言いたいことがあるでしょう」隼人くんは。少しだけ目を細めた。すぐには答えない。私の表情を。今度こそ、逃さず見るように。じっとこちらを見ている。「あるよ」やがて言う。声は静かだった。「かなり」「ここで話す?」隼人くんは、部屋の中を一度見回した。料亭の個室。父親たちがいた場所。郁人先生との縁談を提示され。隼人くんが海外事業を継ぐと決めた場所。「ここでは話したくない」はっきり言う。「じゃあ、帰る?」その問いに。隼人くんの口元が、わずかに固くなった。「帰りたい?」
会食は、それ以上続かなかった。父親たちは、事業上の条件については改めて整理すると確認して。縁談については私の意思を尊重するという形で話を終えた。店の人が新しい茶を運んできたものの、誰もほとんど口をつけない。先ほどまでと同じ個室なのに、空気だけがすっかり変わっていた。私は背筋を崩さないまま、静かに席を立つ準備をした。感情のままに怒鳴ったわけではない。父の考えも。綾瀬家の立場も。郁人先生への敬意も。一つずつ言葉にして、その上で断った。間違ったことはしていない。それでも。隼人くんの表情が一瞬崩れたことだけが、胸の奥に残っていた。「今日は、これでいいだろう」父が言う。「今後の事業については、改めて話す」「分かりました」私は短く答えた。父は、まだ完全には納得していないのだと思う。けれど、ここで話を戻すことはしなかった。少なくとも。私が以前のように、家の用意した流れへ黙って乗るつもりがないことは伝わったはずだった。真哉兄さんも席を立つ。父と隼人くんのお父さんが先に部屋を出た後、兄が私の横へ並んだ。廊下へ出る前に、低い声で言う。「綾香は、学んだんだな」「何を?」「優との結婚で」足が止まりかける。真哉兄さんは、いつものように大きな表情を見せない。ただ、先ほど私が父親たちへ返した言葉を思い返しているようだった。「相手を立てたまま」兄が続ける。「自分の拒否だけを残した」「父さんにも、綾瀬家にも、反論する理由を与えなかった」褒めているのか。皮肉を言っているのか。兄の声からは判別しにくい。私は小さく息を吐いた。「四年間の結婚生活が」口元だけで笑う。「こういう場で役に立つなんてね」自分でも、少し皮肉な言い方だと思った。優の隣にいるために覚えたことだった。相手が何を求めているかを先に読み。不用意に感情を見せず。場を壊さない言葉だけを選ぶ。当時は。自分の意思を抑えるために使っていた。今日初めて。自分を守るために使った。「無駄ではなかったということだ」真哉兄さんが言う。「それ、慰めてるの?」「事実を言っている」兄らしい返事だった。「でも」真哉兄さんは少しだけ声を落とす。「今日の答え方でいい」「父さんに反発するだけでは」「また感情の話にすり替えられる」「分かってる」「ならい
「白松先生のお考えは理解しました」「ありがとうございます」頭を下げる。「ただ」その声が、わずかに低くなる。「一つだけ、確認してもよろしいですか」「はい」父親の視線が。私から隼人くんへ移った。隼人くんは、姿勢を崩さない。まだ私を見ていない。「これまで」隼人くんのお父さんが言う。「何度話しても、家の事業には関わらないと言っていた隼人が」「今日、海外事業を継ぐとまで言った」「それほど頑なだった意見を変えさせたにもかかわらず」父親の視線が、再び私へ戻る。「あなたには、うちとの縁談の意向は本当にないのですか」問いかけは丁寧だった。けれど。何を確認したいのかは分かる。郁人先生との縁談ではなく。隼人くんとの将来を考えているのではないか。隼人くんが、ここまでした理由を。私も受け入れているのではないか。そう聞かれている。一瞬。隼人くんの肩が、わずかに強張ったように見えた。それでも。こちらは見ない。私は、答えを急がなかった。今。隼人くんのために。都合のいい言葉を返すこともできた。個人的に交際していることを伝え。将来的な可能性を否定しないと言えば。隼人くんの決断にも、表向きの理由がつく。けれど。それをしてしまえば。今度は、隼人くんとの関係が。家同士の話の中へ組み込まれる。郁人先生との縁談を断った直後に。別の綾瀬家との婚姻の可能性を差し出すことになる。それは。私が今伝えたかったことと違う。「隼人さんが今日決めたことは」私は、言葉を慎重に選んだ。「私自身も、知らなかったことです」初めて。隼人くんの表情が、わずかに動いた。横顔しか見えない。それでも。頬の筋肉が一瞬だけ固くなり。伏せていた視線が、わずかに上がる。「私に事前の相談はありませんでした」続ける。「ですので」「隼人さんの決断を理由に」「私の意向まで、今ここで決めることはできません」父親は黙って聞いている。隼人くんも。今度は完全に無反応ではいられなかった。それでも。まだこちらを見ない。「今後のことは分かりません」私は、曖昧に逃げるためではなく。正確に答えるために言った。「ただ」一度息を置く。「少なくとも、今の私には」「綾瀬家との婚姻の意向はございません」部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。郁人先生と
「私のことなので、ここからは私が話します」声を出した瞬間。室内の視線が、一斉にこちらへ集まった。父。真哉兄さん。隼人くんのお父さん。郁人先生。そして。隼人くんだけが、まだ私を見なかった。膝の上で握っていた指を、ゆっくりと開く。感情のままに言えば、簡単だった。私の結婚を、事業の条件にしないでほしい。勝手に話を進めないでほしい。隼人くんも、自分の人生を私の知らないところで決めないでほしい。言いたいことはいくつもある。けれど、ここは家族だけの場所ではない。両家の父親がいて、今後も仕事で関わる相手がいる。郁人先生にも、何の非もない。誰かを傷つける形で断れば、その後の仕事へ余計なものを残す。優と結婚していた頃。私は何度も、こうした席に座った。相手を否定せず。意図を理解していると伝え。その上で、自分に不利な約束だけは避ける。当時は、東郷家の妻として身につけた話し方だった。今は。自分の意思を守るために使う。私は、まず綾瀬家の父親へ向き直った。「このようなお話をいただけたことは、大変ありがたく思っております」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「郁人先生ほどの方とのご縁を、両家の将来も含めてご検討いただいたこと自体、光栄です」郁人先生が、静かにこちらを見る。先ほどと変わらない表情だった。それでも、私が何を言うのかを、きちんと待っていることは分かった。「また」私は続けた。「父が、この話を事業の発展と両家の関係を考えた上で提案していることも理解しています」父の顔へ視線を移す。「新設病院と地域医療連携は、今後も長く続く事業です」「そのために、両家の関係をより確かなものにしたいと考えることも、立場としては理解できます」父は何も言わなかった。否定せずに聞いている。おそらく。私がここまで父の意図を汲んで話すとは思っていなかったのだろう。「ですが」言葉を急がず、短く息を吸う。「事業上の必要性がなかったとしても」「私は、郁人先生との婚姻の意思を持つことはできません」部屋の空気が、わずかに動いた。声を強くしたわけではない。それでも。曖昧に受け取られる余地がないように言った。「郁人先生に何か問題があるという意味ではございません」すぐに言葉を重ねる。「むしろ」郁人先生へ向き直った。「とても
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく







